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清洲甲冑工房は桶川胴甲冑を製作

信長の清洲城で知られる清須市で活動する清洲甲冑工房

清洲甲冑工房は「信長の清洲城」で知られる清須市で活動しています。

  製作しているのは信長公が考案した「桶川胴」と言う当世甲冑、実用本位の「働きの甲冑」です。
 会員はボランティアによる活動団体で、清須市発展の一助として、さらに甲冑知識の普及に取り組んでいます。

新着情報news

2017年4月7日
「シリーズ甲冑武具豆知識」を更新しました。
2017年4月7日
「活動報告:はるひ五条川桜まつり「桜の甲冑行列」を更新しました。
2017年1月27日
サイトをオープンしました。

シリーズ甲冑武具豆知識topics

4・威糸と札板について
 甲冑に使う平紐を「威(おどし)糸(いと)」と言い、少し伸びるような編み方がしてある。糸幅は一寸(約30mm)の間に何本通すかで糸幅や札板の穴間隔を決める。
 札板には本小札・伊予札・板札とあり、材質は革製と鉄製がある。革製のものは膠(にかわ)を含浸させ叩き鍛えて作り、「練(ねり)革(かわ)」と言う。鉄製のものは日本刀のように軟鉄と鋼とを合わせ鍛造で作ったので、密度高く重いものだった。江戸中期以降戦が無くなってからは普通の鉄板も使われた。源平の頃の本小札は練革製だったが、戦が峻烈になるにつれ鉄製のものを使い、重量軽減のため革製と鉄製を混ぜて胴甲を製作した。
 本小札は2列または3列(革製の場合)の孔を有し、1/2あるいは2/3ずつ重ね下の4孔で横方向を緊結する(縫(ぬい)重(かさ)ねという)。上の2および3孔で上下を連結する。伊予札は本小札での手間を省くために横方向の重ねは端の少しを重ねるだけのもので縫(ぬい)延(のべ)という。
3・当世具足について
 戦国時代に入り集団密集戦になったことにより上下階級による甲冑(鎧兜)の差は無くなった。
需要の増加とともに「早く大量に製作しろ」という要求が強くなり、それに答えるため本小札や伊予札でなく板札で簡便に作る工夫がなされた。またその他にも攻撃武器や戦い方に対応するための様々な工夫がなされ、その当時のモダンを意味する「当世」の語を冠し「当世具足」と呼び、従来の鎧兜と区別している。
 主な特徴は
1) 製作当初より小具足(袖、籠手、佩楯、脛当等)を冑や胴甲と一緒に作り、専用一具とした。
2) どこから槍や鉄砲玉がくるか判らないので立挙板・長側板を胴丸よりも各一段増やし出来るだけ隙間をなくすようにした。
3) 自己顕示のため背旗の取付装置を付けた。背旗は個人専用のもので、軍隊の合印は袖や兜の𩊱(しころ)に取付けた。
4) 腰の屈伸をしやすくするため「揺るぎの糸」を長くした。
5) 胴甲の発手板(最下段の板札)の形状を変え、重量を肩でなく腰で支える形式にした。
 なお、本小札等を用い当世具足の特徴を具備したものは「丸胴」と言い、旧来の「胴丸」とは区別している。
2・胴丸・腹巻について
 対集団戦の元寇を経験し山城や市街地での戦いに対応するため、重くてだぶだぶの「大鎧」より軽く徒立ち戦に向く鎧として家之子郎党が着用していた胴だけの鎧「胴丸や腹巻」に兜や袖を付け、上級武将でも着用できるように高級化していった。
  胴丸は右引合せ形式で、腹巻は背中で合わせる形式である。本小札を大鎧の約3㎝幅のものから半分位の幅に狭くして身体に密着するようにした。製作の手間を省くために伊予札も使われるようになったがそれでもかなり手間がかかった。
  応仁の乱以降戦国時代に入ると鎧兜の需要は増え、大量生産の要求が一層増してきた。ここで大きな転換がなされ、次代の甲冑「当世具足」の登場となる。
1・大鎧について 甲冑(鎧、兜)と言っても源平の頃と戦国時代では形も違うし機能も違っています。「矛盾」の語源のように戦い方や攻撃武器に対応するため改良が加えられてきました。

 源平の頃は一対一で馬に乗り弓矢で戦います。
西洋では楯を手に持って戦いますが日本では楯を人の四方にぶら下げた形で両手が使えるようにしています。
イメージとしては跳箱を馬に載せその中に人間が入っているような形です。

 また、袖は大袖といって上部中央の一点で肩からぶら下げているので、攻撃や防御時の腕の動きによってどちらへも向くようになっています。

 形状や装飾等は戦を重ねる毎に改良されてきましたが、韋を膠や漆で塗り固めているので重量が40~50Kgにもなり馬から降りたら亀の子同然で動きがとれません。

 それで次代の形になっていくのです。

清洲甲冑工房

〒452-0942
愛知県清須市清洲古城479-1
清洲ふるさとのやかた地下1階

TEL 052-400-2911
清須市観光協会